マルコの福音書
[ 福音?]
英語ではGospel、あるいはGood Newsと訳されます。原文のギリシア語はエウアンゲリオン、あるいはエヴァンゲリオンです。聖書の中でこの「福音」というのは、イエスによって伝えられた良き知らせ、そしてイエスによってもたらされた良き知らせを意味します。
その福音の内容は、パウロの書いたコリント人への手紙の中に要約されています。
「キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、また、ケパに現れ、それから十二弟子に現れたことです。」 (第一コリント15章1節~5節)
少し補足すると、私たちは自分の罪のために神を理解できず、神から離れ、生きる意味もわからずさまよい、神の怒りを受け裁かれるものでしたが、私たちの受けるべき裁きをイエスが十字架の上で代わって受けてくれたこと、そして、イエスを通して神を知り、神の造られた目的にかなって生きることが出来る道を用意してくれた、という知らせです。さらに、イエスが復活し、多くの人がそれを見て証言したことが、このことの保障、証拠となっています。これをすべて含めて、「良き知らせ」「福音」といいます。
References
・France, R. T. Gospel of Mark. S.l.: W B Eerdmans Pub, 2014. Print.
・
1章1節 神の子イエス・キリストの福音のはじめ。
Beginning of the gospel of Jesus Christ son of God.
「はじめ」(ギ:アルケー);この「はじめ」が何を意味するのか、議論があります。
ある学者はイエスがバプテスマを受け、荒野の40日間(1章1節~13節)までと考え、別の学者は15節でイエスが福音を宣べ伝えはじめたところまでを指すと考えます。
しかし、R.T.Franceという学者が考えるように、このマルコの福音書全体を指しているとするのが良いように思います。
すでに弟子たちによって伝えられ、拡がっていた福音をマルコが、伝承によるならペテロの協力のもとにまとめ、「イエス・キリストの福音のはじめ」と書き始め、全体を書いたのではないでしょうか。
ALL RIGHTS FOR THE PHOTOES RESERVED TO redeemed12@hotmail.com
1章2~6節 バプテスマ・先駆者ヨハネ
As it is written in Isaiah the prophet, "Behold, I send my messenger before your face, who will prepare your way, the voice of one crying in the wilderness: 'Prepare the way of the Lord, make his paths straight,'"(Mark 1:2)
預言者イザヤの書にこう書いてある。
「見よ。わたしは使いをあなたの前に遣わし、 あなたの道を整えさせよう。荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、 主の通られる道をまっすぐにせよ。』
(1章2節)
旧約聖書のマラキ3章1節とイザヤ書40章3節がここで引用されて、約束のメシア(ギリシア語でキリスト、救い主の意味)が来る前に「使い」・「預言者エリア」(マラキ4章5節)を神は送る、という預言があります。「そのとおりに、バプテスマのヨハネが荒野に現れ」ました(3,4節)。
このヨハネは福音書や黙示録を書いたゼベダイの子のヨハネではありません。祭司ザカリヤとマリアの親類でアロンの子孫エリサベツの間の子どもでした。
このバプテスマのヨハネは6節にあるように「らくだの毛で織った物を着て、腰に皮の帯を締め、いなごと野蜜を食べてい」ました。この姿は旧約聖書の預言者エリヤの姿と重なります。「毛衣を着て、腰に皮帯を締めた人でした」と答えると、アハズヤは、「それはティシュベ人エリヤだ」と言った。」(第二列王記1章8節) また、主の使いがザカリヤに「エリヤの霊と力で主に先立ち」(ルカ1章17節)と生まれてくる子どもについて語っているように、このヨハネは、預言されていたメシアの前に来るエリヤであることを示しています。
1章9~11節 イエスのバプテスマ
when he came up out of the water, immediately he saw the heavens being torn open and the Spirit descending on him like a dove. And a voice came from heaven, “You are my beloved Son; with you I am well pleased.” (Mark 1:10,11)
イエスはバプテスマのヨハネからバプテスマを受け、水からあがると、聖霊が鳩のようにイエスに下りました。そして、天から「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」という声がありました。
この出来事には重要な意味があります。
1. 見本として
バプテスマというのは「浸す・沈める」という意味の動詞バプティゾーの名詞形で、日本では洗礼と訳されています。
このバプテスマは今までの生活を悔い改めて、神に対して新しい生き方を始めるという意味があります。
イエスは、はじめから父なる神に従う歩みをしていましたから、唯一バプテスマを受ける必要のない人でしたが、そして、バプテスマのヨハネもそのためにイエスにバプテスマを授けることを躊躇しましたが、私たちの完全な見本となるため、あえてバプテスマをお受けになりました。
2. 再創造の初穂として
イエスが水からあがると鳩のように聖霊が下り、父なる神の声がしました。ここに創世記に書かれた世界の創造のはじめの描写を見ることが出来ます。神が世界を創造するはじめに、水があり、その上を神の霊が覆っていました(創世記1章2節)が、この「覆う」は鳥が羽ばたく様子を示すことばで、多くの英語訳はhover (over the face of the waters)と訳しています。
ノアの洪水のときにも、ノアが水の上に鳩を飛ばす場面があり、これも再創造を予表するものと思われますが、イエスのバプテスマは、父と聖霊の三位一体の神が、新たな国、神の国を創造しはじめることを示しているように思います。
1章12・13節 荒野の誘惑
The Spirit immediately drove him out into the wilderness. And he was in the wilderness forty days, being tempted by Satan. (Mark 1:12,13)
「御霊はイエスを荒野に追いやられた。イエスは四十日間荒野にいて、サタンの誘惑を受けられた」
イエスがサタンの誘惑を受けたのは、はじめの人アダムと同じ条件下に入るためでした。
サタンは神のことば・命令に背くように誘惑し、アダムは結局サタンの言葉に従いました。しかしイエスは神のことばによってサタンのことばを退けました。
また、荒野での40日間の試みは、イスラエル民族が昔、40年間荒野でさまよったこととも重なります。
イスラエルの民は荒野で食物のことで神につぶやき、主を試み、偶像礼拝をしてその多くが滅ぼされました。
イエスは空腹の時にも「パンによってでなく神のことばによって生きる」とサタンを退け、神を試みることをせず、サタンを礼拝することも拒否してすべてのサタンの誘惑を退けました。
イスラエルがエジプトの奴隷から、子羊の血によって救われ(出エジプト記参照)、海を渡って荒野に入ったことは、イエスの血によって罪の奴隷から救われ、バプテスマを通して信仰生活に入ったクリスチャンに対する教訓でもあります(Ⅰコリント10章参照)。アダムやイスラエルのようにサタンの誘惑に負け、神に罪を犯すのでなく、イエスのように神のことばによってその誘惑を退けるべきことを教えています。