創世記

 

ノアの洪水

神の子らとネフィリム (6章1-8節)

 

The Nephilim were on the earth in those days, and also afterward, when the sons of God came in to the daughters of man and they bore children to them. These were the mighty men who were of old, the men of renown. (Gen 6:4)

 

<洪水前の状態>

創世記6章から、ノアの洪水として知られる大洪水の様子が描かれています。神は人々の心がいつも悪に傾くのを見て、心を痛め、人と、人のために造られた世界を滅ぼすことを決めます(5-7節)。

 

その背景として、4節に、「神の子ら」と「ネフィリム」が登場します。

「地にネピリムがいた。これは神の子たちが人の娘たちのところにはいって、娘たちに産ませたものである。彼らは昔の勇士であり、有名な人々であった」(口語訳)

 

これを普通に読むと、天使のような神の子たちが人間のところに来て神と人間との間にネフィリムと呼ばれる巨人を産んだ、というように読めます。このネフィリムの翻訳として七十人訳というギリシア語はギガンテス、つまり巨人と訳しています。このネフィリムという言葉は聖書の中でここと、民数記13章の二箇所のみで使われています。

「私たちはネフィリム人、ネフィリム人のアナク人を見た。私たちには自分がいなごのように見えたし、彼らにもそう見えたことだろう」(民数記13章33節)

 

初期のユダヤ文書の一部(エノク書)や初代教父の一部(イレナウス、アレキサンドリアのクレメンス、ティルトリアヌス、オリゲネスなど)は、これを天的存在、つまり天使、又は、堕落した天使と考えて、天使と人の間に生まれた子どもがネフィリムだと考えました。

 

しかし、マタイ22章30節に、イエスは、天の御使いについて「めとることも、とつぐこともない」、結婚や性的関係を持つ存在ではない、と言っていること、そして、この洪水によるさばきは、人に対するもので、堕落した御使いに対するものではないことから、この「神の子ら」というのは、アダムの子セツの子孫、神のみこころにかなっていた、その子どもたち、という意味だと思われます。

 

2節の「美しいのを見て、(妻として)とった」という表現は、創世記3章6節の「見て、とった」と同じ表現です。これは、神の御心にかなった歩みをした人たちの子どもさえ、自分の好き勝手なことをするようになったことを示しているようです。

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神と共に歩んだノア (6章9節)

 

Noah was a righteous man, blameless in his generation. Noah walked with God. (Gen 6:9)

 

「正しい者」「全き者」「神とともに歩んだ」と三度繰り返すことで、ノアの正しさを強調し、またその内容を説明しています。

 

「正しい」(ツァディーク):「義」と訳されることも多い言葉です。新共同訳は「神に従う者」と解釈を少し加えて訳しています。

「全き」(ターミム):「害を受けていない」という意味です。レビ記の中で主に献げる家畜が「傷のないもの」でなければならない、とありますが、そこにこの単語が使われています。

「神と共に歩んだ」:セツの子孫、エノクも「神と共に歩んだ」(5章22、24節)と書かれています。また、アブラハムに対して神は「わたしの前を歩み、全き者であれ」と語られています(創世記17章1節)。

 

「神の前に堕落し、暴虐で満ちていた」(6章11節)そのような時代の中で、ノアはその時代の影響によって害されておらず、神と共に歩み、神との正しい関係を持っていました。エゼキエル書14章14~20節に、イスラエルの神に対するそむきの罪があまりにも大きいので、そこにノアとダニエルとヨブの、三人の義人がいたとしても、自分自身を救い出すだけで、その子どもたちを救うことが出来ない、それほどにひどい状態だ、という描写があります。

概要:

古い世界の裁きと、

新しい世界の創造

(創世記 6ー9章)

神の決断 (6章13節)

 

God said to Noah, "I have determined to make an end of all flesh, for the earth is filled with violence through them. Behold, I will destroy them with the earth. (Gen 6:13)

 

 

神は地が暴虐で満ちているために、この地をすべての人々と共に滅ぼす、と決断し、ノアに語られます。

創世記1章は、人のために、地のすべてのものが造られたように書かれていました。そして、人は、この地を従えるように、と神に命じられました。神に計画され、愛された人間が、神の創造された地上で、神を離れ、堕落し、暴虐に満ちるほどになったとき、神は人を、地とともに滅ぼすことを決断します。

 

この洪水は、再創造を意味しています。創世記のはじめに、地になにもない状態、大水のみの状態から、神は創造をはじめましたが、この洪水によって、もう一度、地を創造することが意図されています。
 

 


 

 

箱舟建設 (6章14~16節)

 

Make yourself an ark of gopher wood. Make rooms in the ark, and cover it inside and out with pitch.
This is how you are to make it: the length of the ark 300 cubits, its breadth 50 cubits, and its height 30 cubits.
Make a roof for the ark, and finish it to a cubit above, and set the door of the ark in its side. Make it with lower, second, and third decks. (Gen 6:14-16)

 

 

神はノアに「ゴフェルの木」で箱舟を作るように命じます。「ゴフェル」はヘブル語のままの翻訳で、新改訳・新共同訳、ESV等がこのように訳しています。口語訳やNRS, NIV等は「いとすぎ」と翻訳していますが、聖書中ここのみに使われた言葉で、どのような木かわかっていません。

 

「箱舟」(テバー):もともとの意味は単なる箱ですが、聖書中ではノアの作った箱舟と、モーセが赤ちゃんの時に入れられた籠(かご)にのみ使われています。
 

箱舟の中に部屋を作り、木のやにで船の内と外を塗るように、と水が侵入しないための指示を細かく与えています。
 

長さの単位キュビト: ヘブル語はアンマなので、新共同訳はそのままヘブル語音読みの「アンマ」と訳しています。1キュビトは44㎝か45㎝。45㎝で計算すると、長さ三百キュビトは135メートル。幅50キュビトは22.5メートル。高さ30キュビトは13.5メートル。
これは、出エジプト時代のキュビトの基準なので、ノアの時代には違ったかも知れませんが、当時の読者に違いを示唆する記述がないので、大幅な違いはないと思われます。


「天窓」(16節、新改訳):(ツォハール)聖書中ここだけに使われた言葉です。口語訳は「屋根」、新共同訳は「明かり取り」と訳しています。英語の翻訳でも、窓と屋根で別れています。ヘブル語には通常使われる、窓と屋根という言葉があるので、なぜこのような特殊な言葉を使ったのかわかっていません。さらに、それを「上部から1キュビト以内に」作れ、というのは、どういう意味なのか大きな謎になっています。多くの解釈がありますが、箱舟の壁と天上との間に、1キュビトの隙間を作る、という意味ではないかと思われます。
いずれにしても、箱舟に屋根を作るように命じていることがわかります。これは、降り注ぐ雨や、波をかぶったとしても、水が中に入ることを防ぐためでしょう。さらに、戸口を舟の側面に作ること、そして、箱舟内部を3階建てにするように命じています。


17-20節で、13節のさばきの内容を再び語りますが、それと同時に、ノアとその家族との間に契約を結び、そこから救い出すことを約束しています。具体的には、ノアとその息子、ノアの妻、息子の妻たちの8人と、すべての生き物の雄と雌とが箱舟に乗ることを神は命じます。
「あなたのもとに来るだろう」(20節)→7章9節で「ノアのところに入ってきた」と書かれているとおり、ノアたちが動物を集めたのでなく、動物の方から箱舟に入った、と書かれています。
21節では、人と動物のための食料をも確保することが命じられています。
このような神の大きな計画に対して、ノアは「すべて神が命じられたとおりにし、そのように行った」(22節)と応答しました。

神は再創造の手段として、ノアとその家族、また動物を救い、用いられました。すべてを滅ぼして、再び一からはじめることも出来たでしょうが、神はこのような手段をとられました。このことは神のさばきと救いを、私たちに例示しています。

 

 

 

箱舟乗船 (7章1~16節)

 

the LORD said to Noah, "Go into the ark, you and all your household, for I have seen that you are righteous before me in this generation. (Gen 7:1)

 

箱舟が完成し、ノアとその妻、三人の子ども(セム・ハム・ヤペテ)とその妻たちが箱舟に乗船する。箱舟を作るのにかかった日数は書かれていません。巨大な船をノアとその息子たちの4人だけで作ったので、多くの時間と労力がこのために費やされたでしょう。
第一ペテロ3章20、21節に「昔、ノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたとき」とあるように、箱舟が作られていた日数は、神が忍耐して悔い改めを待っていた日数だった、と説明されています。ノアの家族だけでなく、悔い改める人がいれば、箱舟に乗ることも許されたでしょうし、多くの人たちが悔い改めたなら、ヨナの宣教で悔い改めたニネベの時のように、さばきを下すことを、神は思い直されたかも知れません。


1節「あなたの全家族」:ノアの父メレク、また祖父のメトシェラは、この時点で亡くなっているので、ノアとその妻、また息子達とその息子の妻たちの8名を指しています。ノアの故にその家族も救われることになりました。
6章19節で、雄と雌の「一つがい」を箱舟に乗せるように、と神は命じられましたが、ここでは詳細に命じています。それは、きよい動物と鳥は「七つがい」のせ、きよくない動物は「一つがい」乗せるように、という命令でした。
「きよい」という言葉はここではじめて登場します。きよい動物、汚れた動物、というのは、レビ記にその区別が書かれているために、この7章は、6章の最後と別の時代に書かれた、と言われることがありますが、レビ記に規定されているのは、「きよいもの」と「汚れたもの」(exレビ記11:47)で、ここでは、「きよい動物」「きよくない動物」と、違いがあります。
きよい動物が何であるか、ここには何も書かれていませんが、このきよい動物と鳥は、神を礼拝するときに用いられたものでした(8:20)。

「四十日四十夜」: 実際の日数を示すものですが、同時に40という数は聖書において、ある一定の(試みの)期間、又は区切りを示すことが多く見られます。
(モーセはシナイ山で40日を過ごし(出24:18)、イスラエルのスパイは40日間偵察し、そのことと関連して、イスラエルは40年を荒野で過ごします。エリヤは40日40夜歩いてホレブ山に到着し(Ⅰ列王19:8)、復活したイエスは40日の間、弟子たちに姿を現しました)

 

大洪水が、ノアの600歳と2ヶ月17日に起こった、と詳細な日付を記録しています。重要かつ歴史的に起こったことを示す場合、このように正確な日付が記されます。
 

「巨大な大いなる水の源が張り裂け」「天の水門が開かれた」(11節)
大洪水は、上の水と下の水から引き起こされました。かつて神は大空の上の水と大空の下の水に分けられましたが(創世記1章6,7節)、ここで、それが再び一つとされました(イザヤ書24章18節以降、エレミヤ書4章23節以降はこの描写を背景としています
)。そして、大雨が40日降り続きます(12節)。

洪水の起きた日に、ノアとその家族・動物たち、鳥など、すべての生き物が箱舟に入りました。すべての乗船が終わると、「主は彼のうしろの戸を閉ざされ」ました。これはノアが最後に乗り、ノアが乗ると同時に、戸が閉められたかのような描写です。ノアではなく、神が箱舟の戸を閉められた、というところが強調されています。

洪水 (7章16節~8章)

 

all flesh died that moved on the earth, birds, livestock, beasts, all swarming creatures that swarm on the earth, and all mankind. (Gen 7:21)

 

7章16節までは、洪水前の出来事について、誰が、何が箱舟に入るか、そして救われるか、ということに焦点が当てられていました。

17節以降は、箱舟の外に焦点があてられて、洪水によるさばきの様子が書かれています。

大洪水があり、水かさが増し、箱舟が浮かびあがります。さらに水かさが増し、箱舟は水面を漂い、すべての山も、水没します。


17節の「大洪水」は、11,12節に書かれているような、大雨と地下水が張り裂ける、水によるさばきを示しています。そして21節にあるように、すべての人も、生物も死に絶えます。
それに対して、その大洪水の期間40日を含めて、雨がやんだ後も、水が150日の間、増え続けたことが書かれています(24節)。

 

「鳥・家畜・獣・地に群生するもの・人」(21節): 創世記1章に書かれた、創造の順序と同じです。

 

大洪水のさばきによって、神は地の上のすべての生物を滅ぼしますが、その中で、ノアと、箱舟の中の生物に心をとめておられた(ヘ:覚えておられた)とあります。義の神の怒りと、神の愛が、ここに見ることが出来ます。


その後、神は風を送り、水は引きはじめます。大水があり、そこに風を送る描写は、創世記1章2節の、神の霊が水の上を動いていた、という描写と似ています(風と霊はヘブル語で同じことばです)。

 

水の源と天の水門が閉ざされ、雨が止みます。洪水から150日を境として、水が減り始めます。
洪水のはじまりは「第二の月の十七日」(7章11節)、それに対して水が減り始め、箱舟が山の上のとどまったのが「第七の月の十七日」と、ちょうど5ヶ月間、150日でした。
その後、ノアは地が乾いているかどうか確かめるために、カラスを放ちます。「烏」:カラスは乾いた地を見つけられなかったとして、役に立たない物のように見られることがありますが、ここにはそのような記述は見られません。はじめに、より強い鳥を放って、その後で、鳩を用いたと思われます。


創世記1章2節で、大水の上に神の霊が動いていた、という言葉は、鳥がその上を舞うという言葉にも使われる言葉です。また、鳩は、イエスのバプテスマの時に、聖霊の象徴として用いられていて、大水の上を鳩が舞う様子は、大水の上に聖霊が動いていた様子と重ります。


11節 鳩はオリーブの若葉をくわえていました。地に再び植物が生え始めていることを示しています。そのことで、ノアは水が引いているのを知ります。
13節 ノアが箱舟のおおいを取ってながめると、地がかわいているのが見えます。
14節 それから約二ヶ月後、完全に地が乾いた、とありますが、ノアは地が乾いているのを見てからも、外には出ませんでした。それは、ノアが決めることでなく、神が決めることでした。ノアは15節以降の神のことばを待って、それから箱舟を出ることになります。
「第二の月の二十七日」: 洪水のはじまりが第二の月の十七日なので、一年と10日ですが、太陰暦は一年が約354日なので、洪水から地が乾くまで、364日と、太陽暦でほぼ一年でした。



 

古代オリエント地域のみの洪水? 
洪水の範囲について、全世界規模なのか、一部地域限定なのか、議論があります。なぜ一部地域限定という説があるのかというと、世界規模というのは現代の常識として考えづらいことと、一部地域であれば、一部の動物だけを箱舟に乗せるだけでよかったので、現実的だという考えから来ています。例えば、『創世記の謎を解く』(ヒュー・ロス著)には、19節の「どの高い山々も、すべておおわれた」と訳されたヘブル語は、「上を流れること」「降り注ぐこと」という意味がある、とし、高い山々に降り注いだ、と考えて、地域限定の洪水だった、と結論しています。しかし、ヘブル語:カーサーは、「覆う」あるいは「隠す」という意味で、「降り注ぐ、上を流れる」という意味はありません。もし「降り注ぐ」という意味があったとして、20節の「水がその上さらに15キュビト(1キュビト45㎝、15キュビトは約7メートル)増し加わった」という意味が不明になります。ヘブル語で見ても、すべての高い山々が、完全に水没した、という以外には解釈出来ません。むしろ、高い山のさらに6,7メートル上にまで水が増した、というのは、箱舟が完全に浮き上がったことと、箱舟の外にいた地の生物が完全に死に絶えたことを示しています。

「120年」 寿命?カウントダウン? 「それで人の齢は、百二十年にしよう」(6章3節)

 この120年の意味には、二つの可能性があります。一つは寿命という意味です。これまでの平均寿命は、900歳前後だったので、120年はかなり短い寿命になります。実際、洪水後に徐々に寿命は短くなり、アブラハムは175歳で長寿を全うしたとあり、妻サラは127歳で死にました。ヤコブの子ヨセフは110歳で死に、この創世記の著者といわれるモーセは120歳で死にました。もしこの120年が、寿命であるなら、洪水によるさばきには、人の寿命の短縮も含まれていたのかも知れません。

 ただ、この解釈で問題になるのは、詩篇90篇10節に「私たちの齢は70年、健やかであっても80年」とあり、40年の違いがあること、又現代の平均寿命も、この詩篇の記述に近いことです(ちなみに日本の平均寿命は、約85歳で世界一!だそうです)。創世記と詩篇の書かれた時代の違いかもしれませんが。

 もう一つの解釈の可能性は、120年後に洪水が来る、つまり、人類滅亡までのカウントダウンの意味です。5章と6章は、時間が完全に連続して書かれているとは言えませんが、5章の終わりにはノアが500歳だったと書かれていて、洪水は7章6節にあるように、ノアが600歳のときにおきています。6章のはじめで、神がさばきを決めてから、120年の猶予を人に与えたという意味の可能性もあります(参考:Ⅰペテロ3章20節)。