創世記

1章

 

 

References

 

Creation And Destruction: A Reappraisal of the Chaoskampf Theory in the Old Testament, D. T. Tsumura, 2005

 

 

1章1節 初めに神が天と地を創造した。

 

In the beginning God created the heavens and the earth.

 

「天と地」

当時のヘブル語の表現として、対照的な二つのものを並べてその間のすべてを示す方法があります。現代でも結婚式のときに「健やかなるときも病めるときも」「富めるときも貧しいときも」と、「どんなときでも」ということを強調する言い回しがありますが、それと似ています。

ここでは「天」と「地」のみ別々に造った、というより、天と地とその中のすべてのものを神は創造した、と聖書のはじめで宣言しています。

 

「創造した」

ヘブル語にはいくつか「作る、する」を意味する言葉がありますが、ここで使われている単語は神のみが出来るわざで、以前にはなかったものを造る、というニュアンスがあるように思います。

「かつてなされたことのない奇しいことを行おう」(出エジプト34章10節)

「主がこれまでにないことを行われて」(民数記16章30節)

に同じことばが使われています。

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1章2節a 地は茫漠として何もなく

 

The earth was nothing.

 

「茫漠」

茫漠は難しい日本語ですが、砂漠のように広いところに何も無い状態を表すことばです。新共同訳などは、ここを「混沌」と訳していますが、実はそれはバビロニア神話の影響のもとに聖書が書かれたという仮説に立って翻訳されています。

バビロニア神話に海水の神であり、混沌をあらわす女神ティアマトがこの世界を造ったという話しがありますが、そのティアマトから創世記1章2節後半の「大水」(テホーム)はとられている、と考えられ、前半部分も「混沌」と訳されました。しかし、言語学的に、ティアマトという言葉からテホームとなることはあり得ないことがわかっています。

この部分のヘブル語は、ただ、神の創造の前には何もない状態だったことを示しています。

1章26、27節 神は人をご自身のかたちとして-男と女とに彼らを創造した。

 

God created man in his own image, in the image of God he created him; male and female he created them.

 

「さあ人を造ろう」

神は1日目に光と闇とをわけ、二日目に水を分け(空の上の水と下の水)、三日目に地と水を分け(地上と海)、地に植物を生えさせ、四日目に太陽と月・星を作り、五日目に海の生物、空の鳥を造りました。そして六日目に、地の動物と人間を造りましたが、この時にだけ「さあ人を造ろう」という神のせりふがあります。ここに、これまでの創造は人のための準備だったことが示されています。

 

「かたちとして」

26節に「われわれのかたちとして、われわれに似せて」とあり、27節には「人をご自身のかたちとして創造した」とあります。「かたちとして」というのは、文脈と、その当時の言葉の使い方から、「彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの-を支配するように」とあるように、本来、神がそれらを管理・支配するところを、人にその役割をまかせる、という意味があることがわかります。人間には神が造られたすべてのものを正しく管理する責任が与えられています。

また、「神のかたちとして男女に造った」というのは、ここで使われている複数形(「われわれ」と「神」(エロヒーム、エル(神)の複数)から、三位一体の性質と似た性質を持つように、男女を造られたように推測します(「男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となる」(創世記2章24節))。

三位一体は説明不可能ですが、結婚における男女、そしてその子どもを含めた家族の関係は、父なる神、聖霊、子なるキリストの関係に似せて造られた、と推測することは出来るように思います。

 

もう一つ「神のかたち」というのを、初代の教父たちはキリストと理解しました。新約聖書のコロサイ書には「御子(イエス・キリストのこと)は見えない神のかたち」(1章15節)とあります。神はイエスを救い主(キリスト)としてこの世界に遣わしましたが、それはただ十字架の死によって私たちの代わりに死ぬためだけでなく(それは一番重要なことですが)、私たちに、本来の人としての生き方を示していました。私たちはイエスの生涯から、本来のあるべき人の姿、どのように生きるべきかを知ることが出来ます。イエスの謙遜さに習うべきこと、自分のしたいことでなく、父なる神のみこころに従って生きるべきこと、その他にも多くをイエスから学ぶことが出来ます。

 

わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます」

 

(マタイの福音書 11章29節)

<サベリウス主義>

三位一体をいろいろな方法で説明しようとする試みが2000年の歴史の中で行われました。例えば、水・蒸気・氷や一人の男性が夫であり父であり子である、というようにです。このように考えた人の代表が3世紀のサベリウスという人です。彼は上の例のように、一つの物質が変化して他の状態になったり、他の役割を持つように三位一体を捉えました(様態論ともいう)。しかし、三位一体の神は、唯一の神の状態が変化したもの、役割の違いというようには説明できません。

 

 

1章31節 神は造られたすべてのものを見て良しとされた。 

 

God saw everything that he had made, and behold, it was very good.

 

「非常に良かった」

この部分を正確に訳すと「非常に良かった」となります。神は6日間で造った世界のすべてを見て、とても良かったと判断されました。この神の造った世界には、悪はなく、動物同士の殺し合いもなく(人と動物は植物のみを食べていた(参照:創世記1章29、30節))、人の死もなかったと考えられます。この非常に良かった世界を、神は再び回復させること、「新しい天と新しい地」において実現することがイザヤ書に書かれています。

 

「狼と子羊は共に草をはみ、 獅子は牛のように、わらを食い、 蛇は、ちりをその食べ物とし、 わたしの聖なる山のどこにおいても、 これらは害を加えず、そこなわない」 と主は仰せられる」(イザヤ65章25節)