創世記

3章

1節 「裸」と「狡猾」

 

 the serpent was more crafty than any other beast of the field that the LORD God had made. 

 

 蛇は神が造られた動物の中で、一番狡猾(アルーム)だった、とあり、これは前節(2章の最後)の初めの人、アダムとエバが裸(アローム)だったことと言葉遊びになっています。彼らは賢さ・狡猾さ(アルーム)を求め、神に禁じられた木から取って食べましたが、それによって得たものは、自分たちの裸(アローム)だった、というわけです。

 人は善悪を自分で判断するのでなく、神に聞いて判断する存在でした。良いことか、悪いことかを決めるのは神の役割であり、神が裁き主でした。しかし、人は神から独立し、神なしに自分で善悪を判断するようになってしまいました(士師記の最後には、イスラエルの民がひどい状態にあったことを伝えるエピソードがありますが、「めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた」(士師記21章25節)という言葉で終わっています)。

 

その結果、まず、自分たちが裸であることを「悪」ととらえて、いちじくの葉をつづり合わせて裸を隠そうとしたことが書かれています(3章7節)。

 

神は神の命令に背いた人を、すぐに殺し、又新たな人を創造することも出来たでしょう。しかし、神はアダムの代わりに動物を殺し、皮の衣を作り、彼らに着せてくださいました(創世記3章21節)。

 

これは、後に来るキリストが、人の罪の代わりに死に、そのキリストの衣を信じる者に着せてくださることの予表になっています。

 

「バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです」

 

(ガラテヤ人への手紙 3章27節)

 

 

 

 

 

 

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1節b 神は、本当に言われたのですか。

 

He said to the woman, "Did God actually say, 'You shall not eat of any tree in the garden'?"

 

 

4、5節の蛇の言葉から、この蛇は善悪の木の実を食べると、目が開けて、神のように善悪を知るものとなることを知っていたことがわかります。
それを知りながら、善悪の木に注意を向けさせるため、蛇は1節のように「園のどの木からも取って食べてはいけないと、神は言われたのか」と聞いています。
蛇はまず、神の命令をわざと間違え、大げさに言い、神が与えている恵みではなくて、禁止事項に目を向けさせています。
2、3節ではその蛇の策略に引っかかり、女は神の語ったことを微妙に変えて答えています。
2章16、17節の神のことばと比べると、神は「園のどの木から」、直訳では「園の中のすべての木から取って食べていい」と言っているのに対して、このすべて、ということばが2節にはありません。
さらに、「触れてはいけない」と、神の言っていないことを加えて、神の禁止を強めて言いながら、反対に神は「食べるとき、必ず死ぬ」とはっきりと言っているのに対して、「死ぬといけないから」とその脅威を弱めています。
このように、すでに女は、蛇の問いかけに対して、神への不信を増し、神の警告を弱めていることがわかります。
このような女に対して、へびははっきりと、「あながたがは決して死にません」(4節)と告げます。これは神が「必ず死ぬ」(死ぬに死ぬ)と語ったのと全く同じ表現に、その前に、notあるいはneverをつけて、その神のことばを真っ向から否定しています。
続けて、食べるとき、目が開け、神のようになり、善悪を知ることを神は知っている」と女に語ります。
このへびの言葉は一見正しいように見えますが、それは神の命令に反すること、神に対する裏切りであり、死を招くことであることに、この時点で女は気がついていませんでした。

蛇は狡猾に女を誘惑していますが、女にだけ語っているところも狡猾で計画的と考えられます。ふたりに語ったのなら、このような誘惑に対して二人で対処することが出来ました。しかし蛇は、女・妻を誘惑出来れば、妻を通して夫にもこの実を食べさせることが出来ることを知っていたのでしょう。
女は本来、男の働きの助け手として造られたのですが、ここで、女、妻が、夫に相談せずに、自分の判断で行動してしまったことは、大きな誤りでした。
神の創造の秩序の中では、このような場合、本来は妻は夫に聞き、夫は神に聞いて、それぞれに従うべきでしたが、それが全く逆転しているのをここで見ることが出来ます。
この蛇はイザヤ書27章1節で「蛇レビヤタン、竜」、黙示録12章9節で「巨大な竜、悪魔とかサタンとか呼ばれ、全世界を惑わす、あの古い蛇」と語られています。
神の敵である悪魔は、神のことばに対する信頼を失わせようとします。「神はほんとうに言われたのですか」と、神のことばに対する疑いを人間に起こさせ、神のことばを否定するのが悪魔の手段です。

 

1985年に、イエス・セミナーという研究所が出来ました。150人ほどの学者が集まり、歴史上の実際のイエスはどのような人間だったか、ということを研究するグループです(歴史的イエス、ナザレのイエス研究とも)。このセミナーに集まった学者たちは、聖書にある奇跡は歴史的でないとし、福音書に書かれたイエスは実際の歴史上のイエスではなく、教会が神格化したものと考えました。その理念のもと、4福音書と異端(グノーシス)書であるトマス福音書を見比べ、1993年に色分けした福音書を作成しました。イエス・セミナーのメンバーが、イエスのことばだと思うものに赤、おそらくイエスに由来すると考えられるものにピンク、多分イエスに由来しないものにグレー、イエスとのことばではないものに黒、とそれぞれの色の玉で投票した結果で分けられたもので、この本によれば、福音書の中でのイエスのことばは、イエスのせりふの18%という結果でした。現代でも「神はほんとうに言われたのですか」と、神のことばを否定する働きを見ることが出来ます。

 

3章概略: 人が神の命令に違反し、罪を犯し、

         さばきを宣言され、エデンから追放される。

12、13節 「あなたが与えたこの女が 

 

 

The man said, "The woman whom you gave to be with me, she gave me fruit of the tree, and I ate."

Then the LORD God said to the woman, "What is this that you have done?" The woman said, "The serpent deceived me, and I ate." 

 

 

 神ははじめにアダムに命令を破ったのか、と問います。夫婦、あるいは家族の中では、その家長である夫が、家族全体の責任をまず神に問われます。アダムはこの女のせいで、私は食べた、と女(エバ)に責任転嫁をします。しかも、あなたが私に与えたところの女が、と、神にまで責任を転嫁しています。

 次に神は、エバに、何故このことをしたか、と問います。すると女は、蛇がだましたので、と、自分が誘惑に負けたこと、目が開けて、神のようになりたかったことには触れず、蛇にやはり責任転嫁をしています。

 

 このように、アダムもエバも、命令をやぶったことに対する罪を認め、謝罪することなく、他に罪を転嫁しています。ここに自分の罪に目を向けようとしない、人間の性質・特徴がよく現れています。

 アダムが、エバが罪を犯したから、あるいは、へびがいなければ、また、そもそも、善悪の知識の実をおいた神が悪い、と、結果的に、アダムと同じように、自分の罪を神に転嫁して、その罪を認めて悔い改めることがありません。

 

 

「だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。」

 

ヤコブの手紙 1章13、14節

14-19節 さばきの宣告 

 

 

I will put enmity between you and the woman, and between your offspring and her offspring; he shall bruise your head, and you shall bruise his heel." (Gen 3:15) 

 

1. 蛇へのさばき(14、15節)

 

 アダムとエバに対しては、神は弁明の機会を与えていますが、蛇に対しては、すぐにさばきが宣言されています。

蛇へのさばきは、すべての生き物の中で呪われ、一生、腹で這って歩き、ちりを食べるようになること、そして、へびと女の間、女の子孫と蛇の子孫との間に敵意を置き、「彼(フー)はおまえの頭を砕き、おまえは彼のかかとにかみつく」。

 蛇、サタンに好意的だったために、騙されてしまった女でしたが、神はそこに敵意を置く、と語られます。

「子孫」という言葉は、グループ又は個人を指す場合がありますが、「女の子孫」には「彼」、「蛇の子孫」は「おまえ」と、それぞれ特定して言い換えています。この「女の子孫」「彼」とは後に来るキリストを指し、主イエスが十字架によってサタンに勝利することを預言していると言えるでしょう。(「その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした」ヘブル人への手紙2章14、15節)

 この箇所はイエスの十字架の預言であると共に、黙示録12章17節に書かれているように、終末において、キリスト者たちとサタンの戦いをも含めていると思われます。

 

2. 女へのさばき(16節)

 

 女に対するさばきは、子を産む苦しみが増すことと、夫との関係の変化(悪化)です(「苦しみ」:聖書中、創世記3:16,17、5:29のみ)。女は産みの苦しみ、男は労働の苦しみが増し加えられました。

 また、妻は夫を恋い慕うが、夫は妻を支配する、と宣言されます(創世記4:7に二つの同じ言葉(「恋い慕う」「支配する」)が登場)。

 産みの苦しみと夫に対する不従順が罪の結果で、自由の愛の関係が、不従順と支配という関係に変わるということ。つまり、夫と妻の関係は、本来の愛による関係でなく、力づくで押さえつけるような関係になってしまいました。

 

3. 男へのさばき(17-19節)

 

 男(アダム)には、神はただ、さばきの内容を告げるのでなく、その理由を告げています。その理由とは、妻の声に聞き従い、神の命令を破ったことです。これは、神の創造の秩序と反対でした。夫は神の声に聞き従い、神の声に聞き従う夫に、妻は従わなければなりませんでした。この創造の秩序が崩れたとき、人が従わせるべき地も呪われてしまい、地が人に反抗するようになりました。罪を犯す以前には、苦しみなく、人が地を耕すときに、豊かな実を結び、いつでもそこから好きなものを食べることができましたが、地が呪われたために、苦しんで食物を得なければならなくなりました。

 

 また、神の命令に背く、従わないことはそれ自体が非常に大きな罪で(「そむくことは占いの罪、従わないことは偶像礼拝の罪」Ⅰサムエル15:22)、本来であれば死がその報いでした。

 「ちりに帰らなければならない」:二人は、自分たちの生活がよりよくなると思い、蛇の誘惑にのってしまいました、その結果は全く反対のものでした。神が語られたように、最終的にはちりに帰る、死ななければならないものとなりました

 

 罪の結果、多くのさばきとのろいを受けることになりましたが、この罪ののろいから解き放たれる時に、本来の祝福にあずかることができ、最終的には、完全な救いを見ることができます。それは、夫婦の関係の回復、地と人との関係の回復、そして死が滅ぼされることです。

21節 神である主は・・・皮の衣を作り、彼らに着せてくださった 

 

 

And the LORD God made for Adam and for his wife garments of skins and clothed them. (Gen 3:21) 

 

 

「皮の衣」

アダムとエバは、自分たちの裸を隠そうと、いちじくの葉をつづりあわせ、腰まきを作っていましたが、それは裸を隠すのに不十分でした。神は、皮の衣をアダムとエバのために作り、着せて下さいました。

 

「衣」(クトネット);

創世記の中で、ヨセフの長服を示す言葉として使われています(37:3)。父がだれよりもヨセフを愛し、その愛情の表現として、そでつきの長服を作りましたが、それと同じように、神は人を愛し、衣を作ったことがこの言葉に含まれています。出エジプト記以降では、祭司の着る服として、用いられています。この皮の衣は、自分たちで作った腰巻のような不十分なものでなく、膝をかくし、足首まで届くほどの十分な服であったと思われます。そして、その素材は、動物の犠牲があったことを示しています。この皮、という言葉は、皮膚を表す言葉で、英語の聖書はleatherではなくskinと翻訳しています。これは、この皮の衣の背後には血が流されたことが示唆されています。

 

「彼らに着せて下さった」

神はその皮の衣を彼らに着せた、とまで書かれています。これは、神の愛の深さを示していること、また、私たちの罪のおおい・衣を、神が用意してくださり、神が着せて下さること(イエスの十字架による救い)を示しています。