新大工町の歴史

 

 

 新大工町は、長崎くんち踊町のうち最東端の町です。出来大工町の南東、中島川右岸にある長崎外町の一ヶ町で、江戸時代は陸手に属しました。
今から遡ること、四百年余り前の慶長11年(1606)に町が出来たと伝えられています。
長崎港に注ぐ中島川下流右岸、同川に堂門川が合流する付近に位置します。町並はやや南北軸に形成され、西は馬町、出来大工町に、南は伊勢町、北は片淵に隣接し、南東は桜馬場に通じています。
長崎で最初の大工町として、内町のすぐ外側に大工町(旧本大工町:現在の長崎市公会堂付近)ができましたが、海外貿易により長崎の町が急速に発展したことに伴い、各地から大工職人が集中しました。そのなかには春日大社の式年造替をつかさどっていた春日座大工という南都奈良の工匠集団からの大工も含まれていた可能性もあると推測しています。
その結果、今までの大工町では手狭になったため、広い土地を求めて、外町の最も外側に新しく大工町ができました。これが新大工町の起こりです。
町の本通りは、長崎街道であり、西洋や中国から渡来した様々な人物が行き来し日本初の文物が、新大工町を通って日本中に広まっていきました。町並みは、長崎街道の道幅も往時そのままに残されています。

寛文元年(1661)には、輸出用の和銭を鋳る銭座が作られ、元豊通宝(1文銭)と呼ばれる銭が鋳られました。この中島鋳銭所は東浜町(現 銅座町)に移るまでの18世紀始めまで続きました。鋳銭所跡付近には現在も銭を磨くための石、銭磨き石が残っており、前の中島川に架かる橋は中島鋳銭所にちなみ銭屋橋と命名されています。

 

 

 

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新大工町

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正徳元年(1711)には、旧鋳銭所(中島銭座)に孔子を祀った儒教のお堂である長崎聖堂が規模を拡大して移転してきました。明治維新後の明治4年(1871)諸制改革により、儒教が官学の地位を失うと衰退し、明治30年(1897)に大浦に孔子廟を開かれた際、備品等が移され、建物は解体され、大成殿と大学門のみ昭和34年(1959)に興福寺に移転保存され、今に至ります。
長崎聖堂については、長崎歴史文化博物館に保存されている聖堂文庫にて、昔を偲ぶことができます。

 

 

長崎聖堂跡のそばには、元文元年(1736)、崇福寺の謙光和尚が町年寄の高島四郎兵衛らに指示をして建立した臨川院というお寺がありました。お寺は見る影もなくなっていますが、境内にお祀りしていた道真公の木像を安置するお宮は、明治になり中島天満宮と呼ばれるようになり、今に至ります。


 

 

文久2年(1862)には、フランス人ロッシュから写真術の指導を受けた上野彦馬が、中島鋳銭所跡地に日本初の上野撮影局を開き写真文化の発展の基礎を築きました。彦馬の撮影局跡地には、現在往時のカメラと撮影台を模したモニュメントがあり、多くの観光客で賑わっています。


また、日本の近代印刷の祖、本木昌造も新大工町が生んだ偉人であります(文政7年:1824、北島三弥太の四男として生を享ける)。
 

明治23年(1890)には、現在の元玉屋デパートから中島川にかけての広大な敷地に舞鶴座が竣工しました。当時、舞鶴座は西日本第一といわれた劇場で、総檜造りで廻り舞台などがある収容人数2,296人を誇る劇場でした。また、この舞鶴座には多くの名優が訪れ、大変な賑いを見せていました。その後、大正4年(1915)長崎劇場と改称、大正6年(1917)三菱長崎造船所所有となり中島会館と変わり、三菱の娯楽施設となるのですが、第2次大戦中に解体されました。

大正時代初期、長崎市は片淵にあった大塚市場を桜馬場天満宮境内にしばらく移転させ、そして天満市場と称し営業を行ないます。その後、新大工町へ移りますが名称はそのままに天満市場と称して現在も営業を続けています。

昭和56年(1981)に町の一部が伊勢町となり、出来大工町・伊勢町・片淵町1~3丁目の各一部を編入し、今の町域となりました。中島鋳銭所、長崎聖堂跡、中島天満宮、上野彦馬撮影局跡付近は伊勢町となりましたが、今でもこの辺りは新大工町自治会に所属されている住民が暮らしています。
現在は、長崎市東部の中心として、生鮮食料品を扱う市場や大型スーパーなどがひしめく商店街が繁栄しており、活気あふれる町として発展を続けています。

【参考文献】
角川日本地名大辞典 42長崎県(昭和62年角川書店発行)
長崎県の地名 日本歴史地名大系43(平成13年平凡社発行)
広助の丸山歴史散歩(ホームページから引用)